「創業」
松井の創業は、享保十一年(1726年)。
その頃には、但馬国美含郡篠庄下浜村(のちの香住村、現在の兵庫県香美町)にて、但馬国高木城主家臣であった四代目当主 松井治右衛門により酒造りが行われていたようです。
残念ながら、それ以前の文献は残されておりません。以後、12代目当主に至るまで、松井家当主は代々、松井治右衛門の名を踏襲し酒屋を維持して参りました。
創業の地である香住の海を望める西迎寺には松井家先祖が掘った井戸「洗心甘露水」の碑が今も残ります。北前船の寄港地として栄えた香住において、松井の家は「天神丸」「八幡丸」という二艘の船を所有し、北海道と交易を行っておりました。行きの船で酒を運び、帰りの船には多くの海産物が積まれていたと伝え聞きます。
昔から続く銘柄「富士千歳」は、霊峰富士に航海の安全を祈願し、商売とお客さまの千歳の幸せを願い命名されたと伝えられます。
餘部鉄橋
香住海
「京都へ」
江戸末期には、蔵を京都・洛中(現在の中京区河原町通下丸屋町)へ移し、酒造りを続けました。
のちの古地図に、松井酒造の名があります。
口伝えによりますと、当時は三軒の酒蔵が軒を連ねており、その真ん中、二軒の酒蔵に挟まれて松井酒造があったようです。
洛中の酒蔵は全て、いくつかの組を構成し、組ごとにひとつの井戸を共有していました。
松井は醸友組に属し、松屋町左馬松町の井戸(現在は解体)を共有しており、そのつながりは今も続きます。
しかしながら、いつでも順風満帆であったわけではありません。
幕末の混乱、東京への遷都と京都が迎えた激動に松井酒造も翻弄されました。
禁門の変に伴う元治の大火では蔵を焼失し、大変厳しい舵取りを強いられたと聞きます。
その後、大正年間から昭和後期にかけて、京都は路面電車が走るようになりました。
その拡張工事に伴い、松井は移転を余儀なくされます。
13代目当主は良質な水を求め現在の地 左京区吉田河原町へ移ることを決断、酒は評判を呼び、相国寺、金閣寺を始めとした高名な寺社仏閣よりご用命をいただくようになりました。
大正四年の大正天皇御大礼の折には、世界各国からの来賓をお迎えする分宿として松井酒造は海軍をお招きいたしました。
しかし、それは一時期の安寧に過ぎず、日本は戦争の時代へと進みます。
戦時中、蔵は解体、併合され、一時、社名は大和酒造と改名、軍へ支給する酒を造り続けたそうです。
高度成長期を迎え路面電車の廃止と同時に、京都は都市化が進み地下鉄が発達します。
人々の暮らしの利便性は向上しますが、地下工事の影響により、酒造りの要である井戸水が使えなくなりました。
折しも外国からの輸入酒、ビールなどの台頭により、日本酒は徐々に廃れていった時代でもあります。
松井酒造は酒造りを断念さざるを得なくなり、以後集約製造により酒造免許を維持して参りました。
昔の蔵
昔の蔵
「復活」
創業の時代から昭和まで、松井の酒造りの担い手はいつも香住の人間でした。
杜氏を手放し、酒の造り手がいない中、14代目当主 松井八束穂が酒蔵の復活を決断します。
平成21年のことです。
幸いなことに井戸の濁りは解消されており、良質な水をくみ上げられていることも確認されました。
より確実に井戸水を確保するため、二号井戸を新たに堀り、万全の体制を整えます。
酒造りは、当時東京にいた長男 松井成樹を呼び寄せ行うことになりました。
大学の同窓というご縁だけで、黄桜株式会社さんが酒造りのいろはを教えてくださり、松井酒造における造りのモデルとなるよう「三栖蔵」にて指導いただきました。
さらに、鴨川蔵の完成と同時に、能登の名杜氏 道高良造氏を招聘し、その後二年間鴨川蔵にて充実したご指導を賜ることができました。
その後、平成24年より蔵元杜氏として独り立ちし、平成31年には代表取締役社長に就任、同時に、酒造りを絶やさない決意を込め十五代目 松井治右衛門の名を踏襲いたしました。
[杜氏]道高良造氏
御用達看板
「創業300年に向けて」
もうすぐ創業より300年を迎えます。
これまでの皆さまのご愛顧に心より感謝申し上げます。
より良い酒造りはもとより、社会に育てていただいている恩返しができるよう、地域に貢献する企業として微力ながら努力を進めて参ります。
今後ともご指導、ご鞭撻を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。